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テサロニケ氏の「反小泉」政治デザイン・その負のスパイラル



反小泉ブロガー同盟の現状とその発起人テサロニケ氏について、いささかとっちらかったものしか書けないが、わたしの考えを少しここにまとめておこうと思う。


もともとわたしの政治的スタンスは小泉政権の個別的政策にほとんどの意味で批判的な考えをもっている。

だが、わたしは反小泉ブロガー同盟と言うものに対して、シンパシーを持っていなかった。

そんなわたしにもT.N君の日記さんからブロガー同盟のTBセンターの構想の提案についてTBを頂いたりした。また、そちらのコメント欄において同盟員でもないわたしが提案したことについて、一人の同盟員の方から「同盟の外部も内部もないから」という趣旨の暖かい共感的コメントを送って下さったこともあった。


今回、そのTBセンター構想が事実上中止になってしまったらしい。


わたしはこのTBセンター構想に「まった」をかけたテサロニケ氏の声明を読んだのだが、これには少なからず違和感を感じる。

同じように疑問を感じられた方もいて、それぞれに意見を表明しておられる。



わたしに言わせれば、テサロニケ氏は現実の小泉政権打倒の運動からもはや遠ざかってしまって、今では「反小泉」という自らが呼びかけた一つの流れの中で、様々な「敵」をターゲットする「物語」に膠着してしまっているような気がする。

今回のTBセンター中止の声明にもその「物語」はまるでリアルな事柄であるかのように語られる。その「敵」とは、いわく、「外からのブロガー同盟攻撃」「内部撹乱目的のTB」「共産党系の関係者」「組織乗っ取り」などなどということのようだ。

冷静に頭を冷やしてみれば分かるが、たとえテサロニケ氏に批判的な意見の持ち主から生まれたアイデアであれ、運動を発展させる流れに水を差すのは不可解であり、そもそも批判的意見を全く封殺すれば、同盟内にテサロニケ氏に対してイエスマンのブロガーしか残らない。

そしてなによりテサロニケ氏にとっての「敵」に対するこのラベリングの数々。「内部撹乱目的」などというのはほとんど妄想じみた政治芝居のようであるが、つい先日無党派層をターゲットにした政治運動をやると公言した人間が、反対意見論者を十派一絡げに「ブロガー同盟攻撃」などとラベリングするような党派的拘泥に明け暮れて、いったい誰に対して何を訴えかけようとしているのかと言うことだ。



そもそもわたしは議会選挙で信任された直後、全権委任が発動されたわけでもないのに「STOP THE KOIZUMI」と唱えて「ファシズム」と規定し、議会制民主主義を否定するかのような民意に逆行した運動に懐疑的だったし、ポスト小泉的ビジョンが同盟運動の中に抽象的にしか見出せないことは、ただのアンチでしかないと思っていた。なにより、例の小泉氏の顔に×印を入れたりするバナーに表された、一人の人格を持った人間を否定するかのようなシンボルに最初から嫌悪感を抱いたし、その旗を振るテサロニケ氏の文章が「幕末」や「三島」といったものを観念的に持ち出して、多分に啓蒙的で政治的作為の演出が大仰だと思っていた。


「改革ファシズム」「新自由主義」とレッテルを貼るが、規定に厳密性が求められるべきであるはずのそういった言葉のみが表層で単独に一人歩きしていく。個別的具体的に政策一つ一つを検証していく緻密な過程をすっ飛ばして、「ファシズム」「ネオリベ」と物語的に小泉政治を短絡化された文脈で語るのは、それは現実的に政治に対応しているとは言いがたい。政治をデザイン化してその色の中に受け手を信じ込ませようとする手法は本来まやかしである(いみじくもそれは、小泉総理が自らへの異論反論に対して「抵抗勢力」という言葉で政治意図的に簡略して集約させた手法と同じものである)。

小泉政権が現状において一定の支持を得ている中、テサロニケ氏は「反小泉」というデザインを作ろうとしてきたが、「反小泉」というスローガンの言葉の額面どおりそれは現状へのアンチでしかない。アンチの中でネガティヴキャンペーンの狂騒に明け暮れるものは政治的現状から遠ざかり、物語的に政治を語るしかなくなる。それが、「小泉」という外側に向かっているときは物語的高揚を生み出して一定のカタルシスを勝ち取るかもしれないが、内側に向かう時には「外からのブロガー同盟攻撃」「内部撹乱目的のTB」「共産党系の関係者」「組織乗っ取り」などという恐怖政治に使われるような言葉で排他的に人格をラベリングして、人間性を傷つける最悪の結果に向かう危険性をも秘めているわけなのである。



いまや、テサロニケ氏は「反小泉」という現実の「小泉」からは程遠いアンチの非政治的物語に深く潜行しすぎたために、政治的な言葉ばかりで事柄を解釈することに埋没しているような気がする。

テサロニケ氏が「ネット右翼」だとか「偏執的な共産党主義者」だとか「運動の内部にいる不満分子」などという言葉を吐き散らすとき、その言葉以上に対象の人格に対して誇大な仮想敵のように評価を下しているように感じるのはわたしだけだろうか。わたしには、テサロニケ氏のそういう他者へのレッテル・ラベリングが、「非国民」だとか「ユダヤ人の陰謀」だとか「権力の手先」というような響きと同列な使用意図に思えて、人間から人間性を剥奪して利己的な政治的デザインの駒としか見なさない視野狭量をそこに感じざるをえないのである。


わたしには結局のところ、「反小泉」のアンチを掲げたテサロニケ氏がアンチを現実に照らし合わない物語としてデザイン化することに執着するあまりに、もともと現実に不満を抱えた彼の支持者をも切り捨ててしまうという負の結果を生んでしまい、全てはいま、肯定的な政治を打ち出せない政治とは無縁な政治趣味の醜悪な局面に向かっているように思えてならない。



わたしはブロガー同盟のあり方そのものには批判的であっても、ブロガー同盟の個々の人々の心情を否定するつもりは全くない。むしろ、それらの人々の心情が党派的なものではなく、切羽詰ったものを抱えた人々が見受けられるからこそ、その心情を突き動かす起点を作ったテサロニケ氏の功罪の負の面の大きさに、わたしは問題定義したいのである。



「反小泉」はある時点では確かにある一定の人々に共有されうる現状認識であったはずだ。

その人々の気持ちを政治デザインとしての「反小泉」の物語に集合させたテサロニケ氏には、人々を突き動かした功績とともにその責任が同時に発生しているのである。

少なくとも「反小泉」を運動としてやるのであれば、数多くの人々に共有されるべき現実的な発想でなければならず、テサロニケ氏のみに語られる独演上でテサロニケ氏に指導されるような教条主義じみた唯我的思想ではないはずだ。


それをいま、テサロニケ氏は、個々の突き動かされた心情の存在を置き残したまま、己の「反小泉」政治デザインにただ一人耽溺しきったまま、アンチの非政治的ドラマをただ一人演出しつつ、その負のスパイラルに周囲の人々をも巻き込もうとしてしまっている。
















00:09 | politic | comments(18) | trackbacks(7)


日本共産党に対する「世に倦む日日」の論述とその問題点に関して。



反小泉ブロガー同盟の発起人であるthessalonike2氏のブログ「世に倦む日日」が共産党の党名変更を求め、また共産主義の目標を放棄せよとのエントリーをここ数日アップし続けている。

thessalonike2氏の論述に対してブロガー同盟内の共産党員の人やその他の諸氏から様々な形での問題定義がなされている。

共産党の党名にこだわる必要と不必要
可能性の芸術のために 
(カッシーニでの昼食)

ブロガー同盟の呼びかけ人のブログ「世に倦む日日」に思う2
(平和・自由・民主主義とインターネット)

建設的議論のために
(Keep the Red Flag)


わたしはブロガー同盟とも共産党とも関係もないしシンパでもない立場であるが、thessalonike2氏の最新エントリー「二段階革命論の黄昏と三十二年テーゼ - 不破哲三のロードマップ」に対してその事実認識に疑問を呈してみたい。


まず二段階革命論についてだが、これは資本主義国家がブルジョア民主主義を達成して最終的に共産主義革命に到ることを意味する言葉である。

この二段階革命論がもたらされた事実について、thessalonike2氏は戦前のコミンテルンが各国共産党に指令した「三二年テーゼ」とそれを発信したスターリンに出自を求めている。

しかしthessalonike2氏の論述には補足が必要である。それは二段階革命論は「三二年テーゼ」で発信されたものであるものの、スターリンのオリジナル原案ではないと言うことだ。

そもそも二段階革命論というのはロシア革命以前にレーニンが提唱したものである。これに対する反論としてブルジョア民主主義革命を飛び越えてプロレタリアートの即時権力奪取を提唱したのがトロツキーの「永続革命論」だ。

二段階革命論に対してレーニンがロシア革命以前に提唱したものである事実を提示せずに、スターリンが支配したコミンテルン「三二年テーゼ」が根拠であると論じるのでは、受け取られ方が全く異なってくる。
現在の共産党が「覇権主義」と呼び「歴史的な巨悪」と呼んでいるソ連共産党から指令提供された革命理論を、日本共産党は戦後も後生大事に抱え続けた


thessalonike2氏の記述を読むと、あたかも現在の共産党が二段階革命論を戦時中にスターリンから指令された時点で全く思想的発展がないかのように捉えられてしまう。しかしそうではない。レーニンがロシア革命以前に提唱した根拠が示すように、資本主義国家が共産主義を実現するために辿るルートを模索するために、民主主義が先か、それとも民主主義を通過せずに即座に共産主義を実現するか、いわばマルクス主義における普遍的な命題なのである。

thessalonike2氏の言い残しは、氏が日本共産党の思想変遷を故意にスターリンの悪名の支配下にこじつけ、そこにネガティヴな負荷を付与しようする意図があるのではないかとの疑問を感じさせてしまう。

いまだに二段階について議論されるのをあたかもスターリンの「三二年テーゼ」の呪縛から日本共産党が逃れられないためであるかのようなイメージを供えるthessalonike2氏の、思想史の事実認識の一部分をざっくりと切り落とし、陰謀を暴きだすかのような語り口で提示させる手法はフェアとは言えない。

なお二段階革命論という言葉の表記についてであるが、カッシーニ氏が「二段階発展論」という表記を併用しているように、厳密に言えば正しい表記とはいえない。

日本共産党は2003年(平成15年)党綱領を改定し「共産主義(プロレタリアート)革命を目指す」という条項を撤廃したので、「革命」を表記するのはもはや無効と言うことになる。だから「二段階革命論」は正しくは「二段階発展論」と言い表されるべきものなのである。

現に日本共産党綱領を読めば分かるように、日本共産党は社会主義的「変革」を「短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程」と位置付け、「社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる」として、「革命」の意味するところのプロレタリアの権力奪取を前提としていない。

国民のために政党があるのであって、国民が政党のためにあるのではないだろう。自らの福利実現のために政党を利用し、政党に変化や転換を要求するのは主権者である国民の当然の権利ではないのか


thessalonike2氏の上記のような注文どおり、日本共産党は社会主義的段階を踏むかどうかの選択肢すらも「国民の合意」を前提としていて社会主義的「変革」を合意なき必然とは認めていないのである。

また「一段階革命論(永続革命論のことか・・・?)の政治勢力は絶無なのだから、二段階革命論の存在意味はない」とthessalonike2氏が独断するまでもなく、

1、真の民主主義的変革が依然達成されていない
2、社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である

とする日本共産党の立ち位置からすれば「二段階発展」は論理的意味をなす。権力奪取に「国民の合意」を調達する前提が加わっただけで、マルクス主義者の命題はレーニンが二段階革命論を提唱した頃と全く変わらず普遍的だというほかない。

またthessalonike2氏持論の党名変更に関して、「国民の合意」を調達すべき、とする日本共産党の誰が「共産党の党名変更は共産党自身の問題だからわれわれ外部の者は口出しする権利はないという声」を挙げたのか。こういうことはきちんとソースを提示しない限り不名誉の根拠なきなすりあいに終始せざるを得ない。



以上が、わたしが「世に倦む日日」最新エントリーに関して異論を定義したい事柄である。

最後に苦言を申し上げたい。

Keep the Red Flag氏もthessalonike2氏の言動に関して「カッシーニが説明してくれる二段階革命論はまさに釈迦に説法」を例にあげて、一部基本的姿勢に異議を感じるところがおありのようだが、わたしはこれに加えて、「私にとってカッシーニはバスルームでキャキャキャと戯れるアイシャと同じであり、ニコニコと笑いながらシャンプーしてあげて、耳にお湯が入らないように注意して、シャワーで頭を洗い流してあげる愛娘」という発言に「おやめなさいよ」と言わせて頂く。

受け手によってはこれはセクハラ発言と捉えられても反論できない。




By 9





付記:

日本共産党綱領にある「社会主義的変革」の社会主義を「社会民主主義」と同義ではないことを念のため押さえておきたいと思う。

それからthessalonike2氏がなにかとソースにする「三二年テーゼ」であるが、コミンテルンはこれに変わる「三五年テーゼ」も指令しているわけで、コミンテルンそのものすら戦前の共産党に対して与えた目標内容が変遷しているのである。

また「三二年テーゼ」で二段階革命論とともに日本共産党に対して示された日本国天皇を絶対君主と位置付けた内容に関してであるが、現在の日本共産党は天皇制に対して天皇・皇室を日本国の代表的存在として容認する表明を2003年の綱領改定に際して行っている。


 


03:45 | politic | comments(27) | trackbacks(10)