『最後の物たちの国で』
ポール・オースター 著 / 柴田元幸 訳
白水社 所収 / 1994年
「人々が住む場所を失い、食物を求めて街をさまよう国、盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国、死以外にそこから逃れるすべのない国。アンナが行方不明の兄を捜して乗りこんだのは、そんな悪夢のような国だった。極限状況における愛と死を描く二十世紀の寓話」。
以上はアマゾン・ドットコムのブックレビューより引用。
ポール・オースターは現代アメリカ文学の異色作家。不条理な物語性でよくカフカなどの一連の作家と同列に論じられることが多い。
しかしオースターの描く不条理はカフカのような不気味なモノトーンの感触やバタイユの伝承文学のような重厚感はない。
どこか不条理でありながら人間が人間であるところの避けがたい必然を説得力をもって呼び起こし、その必然に翻弄される人間へのオースター的とでもいうような独特の距離間を維持した共感でもって描かれているような気がする。
本書はそのオースター的な距離間が極限まで縮まった非常にパッションの強い作風である。
タイトルの示すとおり、この作品の世界では全てがもはや崩壊のベクトルにのみ向かってゆっくりと沈みゆく。一日一日ごとに物たちが失われ、食料や秩序はおろか、言語や知性全般が目に見えて喪失してゆく極限のアノミーが支配している。
それ自体はまさに「20世紀の寓話」の表現であり、前世紀の現実の世界がもたらしたアウシュビッツやシベリアのラーゲリ、第二次大戦などの悲劇の挿話的なエピソードがいろんな部分に挟まれている。
不条理の表現というよりも、実在の世界がパラドックス中たちでその軌跡を織り込まれている。
わたしたちが20世紀を経てリアルタイムに刻み付けられていく絶望そのものが、物たちが最後に向かってゆく負のエネルギーに加速をつけてこの寓話の進行を形作っているような深刻な状況である。
だからこそこの物語は計らずも主人公アンナのヒロイズムによって骨太く支えられて進まざるをえない。
このアンナの告白体で綴られる物語のクライマックスは、やはりラストにおけるアンナが別世界の友人に宛てた力強い約束の言葉の吐露に尽きるだろう。
崩壊する世界と自身の運命を半ば受容しながらも、最後まで肯定感を失うことがない。もはや何に対する肯定感なのかも分からない。どこにも向かわない希望の示すところも何一つない。
しかしこのような無意味に対する意味性を携えた姿勢こそがこれまでの不条理文学では描かれなかったスタンスである。
そしてもっとも困難でありながら安易に稚拙なニヒリズムと取引をしない、言葉のない世界で唯一外側に向かえる信頼に根ざした言葉を帯びた精神なのである。オースターのこの作品での最大の功績はここにある。
Paul Auster