<< November 2005 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>


スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | -


眞理子のmail









わたしからの往信



眞理子を抱いてたらね、何のロジックも必要がなくなって、こざかしい哲学や政治
とか世界についてだとか、
どうでもよくなるんだよ。







眞理子からの返信



うん!わたしも〜。ロジックもネットも理屈も左脳も右脳も政治も経済も衣食住も世間も社会も彼岸も言語も哲学も文学も芸術も過去も病気も体重も明日も未来も小泉も天皇も連合赤軍も一水会も巨大掲示板も右翼も左翼も真ん中も仕事も金も生も死も常識も非常識も逸脱も諧謔も神も自己も他者も
どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーでもよくなります・笑。
きっと、理屈っぽい人は、エッチが足りんのでしょう・笑。
そして戦争の耐えぬ国にもきっと幸せエッチが足りんのでしょうねぇ。
理屈っぽいその辺のおネエさんには、「エッチ足りんのちゃう?」と、言い返せば万事うま
く収まること間違いなしでしょう!笑(絶対ウソ〜)











わたしは、こういう、25歳の、フランソワーズ・アルディが好きなパーラメントを吸う女の子と、恋をしてて、今、夢中だ。


僕は鬱病で、彼女はパニック障害で、それでいいのだ。

彼女が運転をして、僕が助手席に乗っている、それでもいいんだ。



自らを追い詰めてゆく人々のことなんて、どうだっていい。



くたばれ、キャリア至上主義、


啓蒙するどこかのバカのことなんて忘れた。





僕がポートレイトを描くから。


眞理子、きみは、ピアノの下で、クッション置いて、眠ってて・・・・。











BGM : 「私自身」   From いしだあゆみとティンパンアレイ 












23:29 | monologue | comments(1) | trackbacks(0)


福岡県・28歳独身・マキコ








風呂に入ったら、



まず盲腸の洗浄から始める。










盲腸を洗うのが止められない。










きっと盲腸の中に隠している言ってはならない事柄の残高が気になってしかたない。





















21:53 | poetry | comments(1) | trackbacks(0)


音楽評 “Different Trains” − ミニマルの涯てに見えてくる反復され得ぬもの


reich


Steve Reich   1990年
Reich: Different Trains, Electric Counterpoint / Kronos Quartet, Pat Metheny


1.Different Trains: America - Before the War
2.Different Trains: Europe - During The War
3.Different Trains: After the War
4.Electric Counterpoint: Fast
5.Electric Counterpoint: Electric Counterpoint: Slow
6.Electric Counterpoint: Fast





ジョン・ケイジに並ぶミニマル・ミュージックの分野における現代音楽の巨匠スティーブ・ライヒの1988年発表作。


ジミー・ヘンドリックスの「紫のけむり」などのポップスのカヴァーで知られるストリングス・グループ、クロノス・カルテットとの共演。

話し言葉の断片や列車サイレンの音をテープで流し、弦楽4重奏の反復されたフレーズを少しずつコードを変えながら進行する。


ストリングスになぞられるように反復する言葉の断片によって紡がれる主題。

第二次大戦前の移民アメリカ人が乗った列車の人々の言葉。大戦中のナチスのホロコーストの生き残りの人々が語る体験談。そして戦後生き残った人間たちが辿っていく軌跡。

この三部構成が、本来のミニマル・ミュージックの諸要素を大胆に活用しながら、それとは対極的に、動機を徹底操作した作家主義的な堂々たる大作に仕上げている。


ミニマル・ミュージックは現代音楽のコンテクストであり、ミニマル(反復)とは現代の位相を語る上で根幹をなすテーマである。

コピーやサンプルの代替可能なシステムが人間性排除を生み出してくるミニマルの表層は無機質である。


しかしここでライヒが展開したミニマル・ミュージックは反復の上に人々の生のドキュメンタリーな言語と、美しい弦楽のフレーズの展開を巧妙に織り上げることで、ミニマルの表層を突き破る生き生きとした物語性を獲得している。

本来、物語性や作家主義的動機を軸としないポストモダンなミニマルの諸条件が、この作品においては作品全体の劇性構成に貢献し、ロマン派音楽のような楽曲の叙情性を形作り、作者のメンタリスティックな主題を雄弁に語らせている。


このドラマティックな展開はその辺の映画音楽の安直なメローなコード進行よりも、過程の紡ぎとフレーズ一つの位相の切実さによって、ライヒが辿りつくミニマリズムの極北に、図らずもコピーや反復のシステムに対峙するわたしたちの現代の生の姿を共感的に訴えてくる。


反復としてのミニマリズムを徹底的に追求して行き着いたところに、本来のミニマリズムとは相反した、反復し得ない一回性の立ち位置が見える。

楽曲の構成上では反復でしかないそれらの「独白」が歴史上の証言の言葉としての等身大の重さを伴って、反復され得ない世界と人間についての「いま」「そこ」の一回性を紡ぎ上げる。

そこにはミニマリズムが相対性の地平において決して解消することのできない、わたしたちの「実存」の在り様が、愚直なオーソドックスを装いながら浮き彫りにされてくる。




今作ではパット・メセニーとの共演による「エレクトリック・カウンター・ポイント」('87年発表)も収録されているが、ここでも「ディファレント・トレイン」と似た方法論での楽曲が展開されている。













18:20 | music | comments(5) | trackbacks(1)


「名無し@詩人さん?」のバラッド



ある朝、社会保険庁から「年金払え」という通知と一緒に、警視庁から「詩を書いてはいかん」という通達が来た。

それから2ちゃんねるから「おまえは谷川俊太郎みたいに詩を書いてお金を稼げないただのヒッキーのニートだからいっぱしのハンネなどを使って詩を書くなんて贅沢だ。うぬぼれている。そんな暇があったらバイトでもしろ。オナニーばっかりするな。逝ってよし(藁・・・・以下略」みたいな長文のメールが1万通来て、プロバイダーのメールボックスがパンクしてネットが出来なくなってしまった。

なので、そのある朝から「ネット」で「詩」を書くことが出来なくなってしまった。よって自動的にハンドルネームは死んだ。

わたしのハンドルネームは自分でいうのもなんだけど、イケメンで、モテるらしい、男か女か分からない、そういうエレガントに、謎めいた、「ネット詩人」ということになっていたのだが、「ネット」も「詩人」もある朝わたしから全部吹き飛んだ。

気がついたら、PCのディスプレイからわたしの「詩のサイト」というやつが消えて、PCはわたしのゆがんだ顔しか映らないディスプレイを抱えた箱になっていた。箱男とはこのことだったのかと感心していたら、わたしと同じような状態に陥った「ネット詩人」が都内の難民キャンプに収容されていると言う記事を「週間新潮」で読んだ。

彼らはみな、一様に「名無し@詩人さん?」という仮の「ハンネ」が与えられてID番号が割り振られたと言う。

今まで「恋の詩」だとか「自殺の詩」だとか「学生の詩」だとか「詩・・・・わたしはうつくしい」という、そんな「詩」を書いてきた天罰だと「週間新潮」は豪語していた。

そんなことはない、イラクで戦争が起こったときはわたしは立派に反戦の「詩」を書いたぞ、と叫んだID456364759というおとこは、次の日国立療養所に連行された。ファルージャと言う地名を彼は答えられなかったかららしい。「名無し@詩人さん?」ID754284542と言うおんなはナスダックを「北京ダックの一種」だと思っていた容疑で3時間の拷問を受けて翌朝廃人になった。せめて廃人じゃなくて俳人だったらよかったのに、と嘆いた「詩」を即興に思い浮かべた「名無し@詩人さん?」568715××××××××××××は「名無し@詩人さん」仲間たちから「この、日和見詩人野朗が!」とリンチを受けてやはりその次の翌朝に廃人になった。

こうして日本中は元「ネット詩人」で現「名無し@詩人さん?」で充満することになった。彼らはみな強制労働に従事させられて何とか生き延びることになった。

「詩的」な文章を書く特技を買われて、出会い系サイトのサクラを時給30人民元で強制的に徴発されてしまったわけである。出会い系サイトで「まりあ」だとか「ももこ」だとか「タカシ」だとか「たくや」だとかありふれた名前を名乗らされて、「セフレ募集!」だとか「心と身体も癒しあいたいの・・・・♪」だとか「主人が相手をしてくれなくて女を忘れて3年目のあたし、これでもいいかな、思い出させて欲しい・・・逆援助もしちゃう。。。☆〜( ^o^)o_彡☆あははっ★いまどこ?」だとか屈辱的な日本語を一日12時間労働で貸し与えられた携帯電話からサクラメールを何万通も送信させられてた。

「名無し@詩人さん?」たちはしばしば反乱を起こしたが、彼らの反乱は当局によって弾圧された。「名無し@詩人さん?」たちは数こそ多かったが、「詩」を書くことに人生をかまけていたので、おまけに「ネット」でしか「顔」を合わせない「ネット詩人」だったので団結力も弱かったので、彼らは弱かった。だからすぐに鎮圧された。

あまりの迫害に耐え切れなくなった一部の「名無し@詩人さん?」たちは海外に亡命した。だが、彼らを海外で待ち受けていたものは、かつてのニートから今はホームレスに更に転落したリアルの暮らしだったのだ。なぜなら彼らは「詩的」な日本語は飽きるほど羅列させることが出来たが「詩的」な外国語を羅列できるほどのインテリの「名無し@詩人さん?」はどこにもいなかったからである。

海外になだれ込んだ政治難民だか経済難民だかわかんない「名無し@詩人さん?」たちは、パリのポン・ヌフのほとりで、あるいはNYのグラウンド・ゼロの空き地で「わたしの詩集、買ってください」と外国語で書かれたプラカードを持って、日本語の「自費出版」の「詩集」を売り始めたが、そんな彼らにパリジェンヌやニューヨーカーたちは一瞥の侮蔑をくれるだけだった。

「詩集」をまったく売れなかった「名無し@詩人さん?」の一部は刺繍で食いつないだが、他の大勢はみな食えない「名無し@詩人さん?」ということで餓死していった。見兼ねた外国人の詩人が、元日本人の「名無し@詩人さん?」を救済する社会事業をはじめたのだった・・・・・と言いたいところだったが、そうはならなかった。外国ではとっくの昔に外国人の「名無し@詩人さん?」の粛清を終えて更なる近代化を果たしているからだった。

かくて「詩人」はおろか、「ネット詩人」もいなくなった日本では「小説」の「新人賞」への応募が殺到した。もはや「詩」では生きていけないということで、「小説」を書くことが「名無し@詩人さん?」の間で大ブレークしたわけである。

でも彼らは容易に「小説」を書けなかった。なぜなら、彼らが昔書いていた「詩」というしろものは「小説」という商品よりもはるかに簡単に書いていたから、「小説」は難しすぎたのである。彼らは「小説」と言う文章をどこで「改行」するのかさえ、まったく知らなかった。

「これは詩なのです」といって「詩的」と呼ばれるものを書いていた「名無し@詩人さん?」たちは、ようやく自分たちが売れなくて食えなかったニートだとかヒッキーだとかだったかつての自分たちを知りつつあるのだった。「ネット」というところで彼らはおたがいの「詩」を見せ合って、彼ら仲間内だけでそれを喜び合う、そんな自慰にふけっていただけだったのだということを。かつて「ネット詩人」だった今は「名無し@詩人さん?」たちは「詩のボクシング」というSMチックなオナニーショウや「詩のリーディングライヴ」という一般市民も震えたつ変態オナニーショウに興じていただけだったということを。

日本では「名無し@詩人さん?」の難民キャンプは「名無し@詩人さん?」のラーゲリと形を変えて、どんどん「名無し@詩人さん?」たちが粛清されていった。

それから数年が経っていった。

もうどれぐらい、「名無し@詩人さん?」は生き残っているだろうか・・・・・・・。

今これを書きながら回想するわたしは数少なくなった「名無し@詩人さん?」の生き残りの一人かもしれない。もはや「ネット詩」がなく、かくして「詩の投稿サイト」も「掲示板」も殲滅され尽くして清掃されたこの街で、わたしはただひとり、ひっそりと、生きている。

地下で引き続き行われていた前衛「名無し@詩人さん?」テロリストたちの「リーディング」地下変態オナニーショウ集会が街の自警団の連中によるアパートローラー作戦で根絶やしとなり、この街からすっかり消え去ってすでに久しい。優秀な前衛的な活動家であった「名無し@詩人さん?」たち、すなわち最も現実では無能生活者だったすぐれた「名無し@詩人さん?」はまっさきに、みな死んでいった。生き残っているのは「ネット詩サイト」で、かつてちんかす程度の「詩の評価」しかなされなかった、そう、わたしのような目立たず地味だった「名無し@詩人さん?」だけなのである。 

そんなわたしの「名無し@詩人さん?」の人生も、こうして終わりが近づいた。

わたしが息を引き取る瞬間は近い。

くだらない「名無し@詩人さん?」なわたしの稼業もまもなく終わる。

わたしのつぶやき、そんなものが、まもなく朽ち果てるのだ。

名無し@詩人さん?、名無し@詩人さん?、名無し@詩人さん?、名無し@詩人さん?、詩人さん?、詩人さん?、詩人さん?詩人さん?詩人さん?、・・・・・そんなクエスチョンマーク付きの侮蔑をこめた蔑称にまみれたわたしの人生、わたしにはそれが、すべてであったのだ。

もはや死を臨んでわたしの眼中には一点の曇りもない。そうだ、そうなのだ、わたしは、いや、わたしこそ、オナニーショウとちんかすに明け暮れたわたしこそ、そう、そうだ、まぎれもなく、名無し@詩人さん?、本物の名無し@詩人さん?、ベスト・オヴ・名無し@詩人さん?、グレイテスト・オヴ・名無し@詩人さん?だったのだと、そうだったのだということを・・・・。

そしてわたしは、最後の瞬間、こう叫んで、レジェンド・オヴ名無し@詩人さん?の伝説を語り終えてこの本物のベスト・オヴ・グレイテスト・オヴ・レジェンド・オヴ・チャンピオンシップ・オヴ・名無し@詩人さん?な人生に幕を閉じる!!!!!  



そう、 




これこそが、



まさしく、








人類と、



わたしの、







の、

「詩」*
 、
(*註・・・オナニー)




と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。



















15:12 | fiction | comments(0) | trackbacks(5)


階 段





階段は



混んでいる









階段を    昇る人と



階段を    降りる人。

























わたしは




階段にいる。

























階段は



3時間前から  わたしがいるはずである。





































そのうち   クリック音がして









わたしも


階段も



         閉じる










stairs









00:18 | poetry | comments(1) | trackbacks(0)


映画評 『汚れた血』  疾走する愛が夢見た未来





汚れた血     “MAUVAIS SUNG”


1986年 フランス映画
監督・脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
出演:ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ ミシェル・ピコリ ジュリー・デルピー


この映画を見なかったら、この監督に出会わなかったら、貧相な8ミリの機材を使って自主映画を撮ろうとは思わなかった。わたしに映画に感動させただけでなく、映画を撮ろうと決意させた映画。


舞台は近未来のパリ。愛のないセックスをするとたちまち死に到るレトロウイルスに感染する不治の病“STBO”に人々は恐れおののいていた。父親を地下鉄での不慮の死で失った金庫破りの青年アレックスは、孤児となって新しい人生に逃れる焦燥に掻き立てられていた。アレックスの父親の死がきっかけでその友人マルクは「アメリカ女」の率いるシンジケートから膨大な借金の返済を脅迫され行き詰まっていた。たった一社の製薬会社だけが開発に成功した“STBO”の免疫薬の強奪を計画したマルクは、金庫破りとしての腕を買って、アレックスを仲間に誘う。人生を塗り替えるべく、恋人を捨て、マルクの元へと向かったアレックスは、そこでマルクの愛人アンナを激しく愛してしまうようになる。


監督は若干25歳でこれを製作したレオス・カラックス。これに先立つ処女作『ボーイ・ミーツ・ガール』で自国フランスにおいて「ゴダールの再来」と呼ばしめた。

この後、『ポン・ヌフの恋人』を撮るが、これらの三作は全て主演ドニ・ラヴァンが演じる“アレックス”という青年による物語の三部作である。『汚れた血』は“アレックス”三部作の中で最もファンタスティックであり、感覚主義的な映像美であり、無軌道な疾走感に漂った快作だ。


カラックスの作る映画の全ては「衝突していく愛の物語」と言ってよい。

主要な役柄を除いて世紀末のパリの人々は陰影に沈み、愛のないことのモチーフ“STBO”の戦慄の中で表情が現れない。アレックスやマルク、アンナを巡る「愛にまつわる人たち」の顔だけがスクリーンいっぱいに活写される。そして彼らが対話するシーンは基本的に彼らが向き合い、視線を交わすことはない。話者か聞き手のどちらかが背中を向けたカットであったり、光の陰影の中で影に沈んでいたりする。

そしてアンナとアレックスの深夜の長い会話のシーン、あの部分に象徴されるように、愛に関する人と人の対話の時間のみに、ようやく映画的技法の呪縛から解き放たれて彼らは視線を交わし、それを確認しあうことが可能になる。それがたとえ、一方的な愛の疾走であったとしても。


「君とすれ違ってしまったら、世界全体とすれ違ってしまうことになる」。


アンナに激しく求愛しながらも、報われることのないアレックスの愛。しかし彼はアンナやマルクのために製薬会社の金庫を襲い免疫薬を奪う。警官隊に包囲されたビルをエレベーターで降りてきたとき、扉が開いた途端、ピストルの銃口を自分のこめかみに当てて不適な笑みを浮かべるアレックスの姿が圧巻である。


仲間のもとへ帰る途中に「アメリカ女」に狙撃され瀕死の重傷を負うアレックスをマルク、アンナらは海外逃亡のために飛行場へと車で運ぶ。アンナに支えられながらモノローグを繰り返すアレックス。


「ここを出たら、出ることが出来たら、自然の中に出る、全ての舗石を愛撫する、階段の一段一段に愛撫する。もし生き延びられたらだ。駄目だったら怒り狂うぞ」


「生きるすべを学ぶ時間はもうない。でももっと生きるつもりだった。まだ何年も、何年も。人生を整えるために」


「もう充分生きたといえる日が、いつか・・・・・・」


飛行場に辿り着いたアレックスは車のボンネットの上で仲間に見守られながら絶命する。

アレックスの死を看取ったアンナが飛行場の長い滑走路を突如疾走を始める。マルクが呼び止めるのも構わず疾走する。頬にべったりと付いたアレックスの血を、拭わず、まだその温かみの残り火を確かめるかのように手のひらをかざしたあと、やがて両手を閉塞した灰色の空に向かっていっぱいに広げながら、沈黙のうちに疾走する。「疾走する愛」。


「アンナ、信じるかい、疾走する愛を。永久にスピードの恍惚と共に疾走し続ける愛を」


このラストのアンナの疾走、そして中盤のラジオから流れるデビッド・ボウイの“Modern Love”と共に深夜のパリの街角を駆け抜けるアレックスの疾走。これがすべて「衝突していく愛」の殺ぎ落とされた象徴的表現の全てだと思う。

この疾走に感じ入ることができる人たちにのみ、暗黙と、特権的なニヒリズムと、対話の死を突き破ることの出来る、関係性の未来が開かれているのだ。
















23:39 | cinema | comments(8) | trackbacks(2)


テサロニケ氏の「反小泉」政治デザイン・その負のスパイラル



反小泉ブロガー同盟の現状とその発起人テサロニケ氏について、いささかとっちらかったものしか書けないが、わたしの考えを少しここにまとめておこうと思う。


もともとわたしの政治的スタンスは小泉政権の個別的政策にほとんどの意味で批判的な考えをもっている。

だが、わたしは反小泉ブロガー同盟と言うものに対して、シンパシーを持っていなかった。

そんなわたしにもT.N君の日記さんからブロガー同盟のTBセンターの構想の提案についてTBを頂いたりした。また、そちらのコメント欄において同盟員でもないわたしが提案したことについて、一人の同盟員の方から「同盟の外部も内部もないから」という趣旨の暖かい共感的コメントを送って下さったこともあった。


今回、そのTBセンター構想が事実上中止になってしまったらしい。


わたしはこのTBセンター構想に「まった」をかけたテサロニケ氏の声明を読んだのだが、これには少なからず違和感を感じる。

同じように疑問を感じられた方もいて、それぞれに意見を表明しておられる。



わたしに言わせれば、テサロニケ氏は現実の小泉政権打倒の運動からもはや遠ざかってしまって、今では「反小泉」という自らが呼びかけた一つの流れの中で、様々な「敵」をターゲットする「物語」に膠着してしまっているような気がする。

今回のTBセンター中止の声明にもその「物語」はまるでリアルな事柄であるかのように語られる。その「敵」とは、いわく、「外からのブロガー同盟攻撃」「内部撹乱目的のTB」「共産党系の関係者」「組織乗っ取り」などなどということのようだ。

冷静に頭を冷やしてみれば分かるが、たとえテサロニケ氏に批判的な意見の持ち主から生まれたアイデアであれ、運動を発展させる流れに水を差すのは不可解であり、そもそも批判的意見を全く封殺すれば、同盟内にテサロニケ氏に対してイエスマンのブロガーしか残らない。

そしてなによりテサロニケ氏にとっての「敵」に対するこのラベリングの数々。「内部撹乱目的」などというのはほとんど妄想じみた政治芝居のようであるが、つい先日無党派層をターゲットにした政治運動をやると公言した人間が、反対意見論者を十派一絡げに「ブロガー同盟攻撃」などとラベリングするような党派的拘泥に明け暮れて、いったい誰に対して何を訴えかけようとしているのかと言うことだ。



そもそもわたしは議会選挙で信任された直後、全権委任が発動されたわけでもないのに「STOP THE KOIZUMI」と唱えて「ファシズム」と規定し、議会制民主主義を否定するかのような民意に逆行した運動に懐疑的だったし、ポスト小泉的ビジョンが同盟運動の中に抽象的にしか見出せないことは、ただのアンチでしかないと思っていた。なにより、例の小泉氏の顔に×印を入れたりするバナーに表された、一人の人格を持った人間を否定するかのようなシンボルに最初から嫌悪感を抱いたし、その旗を振るテサロニケ氏の文章が「幕末」や「三島」といったものを観念的に持ち出して、多分に啓蒙的で政治的作為の演出が大仰だと思っていた。


「改革ファシズム」「新自由主義」とレッテルを貼るが、規定に厳密性が求められるべきであるはずのそういった言葉のみが表層で単独に一人歩きしていく。個別的具体的に政策一つ一つを検証していく緻密な過程をすっ飛ばして、「ファシズム」「ネオリベ」と物語的に小泉政治を短絡化された文脈で語るのは、それは現実的に政治に対応しているとは言いがたい。政治をデザイン化してその色の中に受け手を信じ込ませようとする手法は本来まやかしである(いみじくもそれは、小泉総理が自らへの異論反論に対して「抵抗勢力」という言葉で政治意図的に簡略して集約させた手法と同じものである)。

小泉政権が現状において一定の支持を得ている中、テサロニケ氏は「反小泉」というデザインを作ろうとしてきたが、「反小泉」というスローガンの言葉の額面どおりそれは現状へのアンチでしかない。アンチの中でネガティヴキャンペーンの狂騒に明け暮れるものは政治的現状から遠ざかり、物語的に政治を語るしかなくなる。それが、「小泉」という外側に向かっているときは物語的高揚を生み出して一定のカタルシスを勝ち取るかもしれないが、内側に向かう時には「外からのブロガー同盟攻撃」「内部撹乱目的のTB」「共産党系の関係者」「組織乗っ取り」などという恐怖政治に使われるような言葉で排他的に人格をラベリングして、人間性を傷つける最悪の結果に向かう危険性をも秘めているわけなのである。



いまや、テサロニケ氏は「反小泉」という現実の「小泉」からは程遠いアンチの非政治的物語に深く潜行しすぎたために、政治的な言葉ばかりで事柄を解釈することに埋没しているような気がする。

テサロニケ氏が「ネット右翼」だとか「偏執的な共産党主義者」だとか「運動の内部にいる不満分子」などという言葉を吐き散らすとき、その言葉以上に対象の人格に対して誇大な仮想敵のように評価を下しているように感じるのはわたしだけだろうか。わたしには、テサロニケ氏のそういう他者へのレッテル・ラベリングが、「非国民」だとか「ユダヤ人の陰謀」だとか「権力の手先」というような響きと同列な使用意図に思えて、人間から人間性を剥奪して利己的な政治的デザインの駒としか見なさない視野狭量をそこに感じざるをえないのである。


わたしには結局のところ、「反小泉」のアンチを掲げたテサロニケ氏がアンチを現実に照らし合わない物語としてデザイン化することに執着するあまりに、もともと現実に不満を抱えた彼の支持者をも切り捨ててしまうという負の結果を生んでしまい、全てはいま、肯定的な政治を打ち出せない政治とは無縁な政治趣味の醜悪な局面に向かっているように思えてならない。



わたしはブロガー同盟のあり方そのものには批判的であっても、ブロガー同盟の個々の人々の心情を否定するつもりは全くない。むしろ、それらの人々の心情が党派的なものではなく、切羽詰ったものを抱えた人々が見受けられるからこそ、その心情を突き動かす起点を作ったテサロニケ氏の功罪の負の面の大きさに、わたしは問題定義したいのである。



「反小泉」はある時点では確かにある一定の人々に共有されうる現状認識であったはずだ。

その人々の気持ちを政治デザインとしての「反小泉」の物語に集合させたテサロニケ氏には、人々を突き動かした功績とともにその責任が同時に発生しているのである。

少なくとも「反小泉」を運動としてやるのであれば、数多くの人々に共有されるべき現実的な発想でなければならず、テサロニケ氏のみに語られる独演上でテサロニケ氏に指導されるような教条主義じみた唯我的思想ではないはずだ。


それをいま、テサロニケ氏は、個々の突き動かされた心情の存在を置き残したまま、己の「反小泉」政治デザインにただ一人耽溺しきったまま、アンチの非政治的ドラマをただ一人演出しつつ、その負のスパイラルに周囲の人々をも巻き込もうとしてしまっている。
















00:09 | politic | comments(18) | trackbacks(7)