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ash.




















いつも同じ車でシティホテルに向かう。首都の幹線道路はパニックする魂で混雑したままだ。放射熱にゆがんだラジオは子ども達の大量自殺を実況している。きっとマイクロソフトの陰謀に気づいたのだろう。君はどこでありふれた爆弾マニアをみつけたんだい?テロ見物客の引けたホテルのカウンターにポーターはいない。スウィートルームに新しいキャリアが待っている。グラスを落とすとあつらえのマスクが剥げる時だ。こうしてまた安っぽいロジックと防護服に身を包んだ痙攣によって蔓延するレトロウィルスのことなど忘れてしまう。窓の向こうでガソリンを強奪するバイカーたちが殺す濁音と犯す悲鳴で爆笑してる。君は終末のポーチで誰と寝てる?








カタストロフィ・・・・・・


      人々は望むものを悲劇的に願い、

    人々は人々の顔を知らない、

        言葉は同じ言葉に収束されて、   

     カミソリへと仕向ける仕草を鏡に向かって繰り返す。

あなたは彼や彼女を使い捨てて、

        彼や彼女に似た誰かへと向かう。

             繰り返す物語に嘔吐しながら、

   そしてあなたはあなたの求めるすべてに憎悪するから。   








合衆国大統領は正常位しかやらないとスクープしたホモのDJが吊るし上げられた高層ビルに左派ピューリタンの仕業で尻の穴をジャックされた搭乗員のステルスが激突炎上する。テレコン中毒のママはデカいおっぱい欲しさに一人娘をアラブの富豪のオナペットにでもとネットオークションで売り込んだ。ポン引き役のヤプーサイトにとってネオコン・スキンヘッズたちはオイシイ顧客だ。やつらに扇動された役立たずどものチームが不法入国のカラーズを毎晩なぶり殺す。老婦人の抱えたミルク瓶が床に落ちて彼女が翡翠の神に祈る頃、シティホテルで褐色の肌をむさぼりながら、君は今夜も過去もいない、僕は一度だって君の顔を見たことがあるのか・・・・?








カタストロフィ・・・・・・


   彼は彼女に夢みられた世界をロッヂで待ち続ける。

    少年は古い指紋を懐かしみ少女は新しい誘惑にドレスが湿る

    混乱した鋪道の上で衝突する幾つかの人生は命がけで

       僕はあまりにも多くの顔のことをいらないと思う。

あなたは時々立ち止まってふりかえり

   彼や彼女に似た誰かの運を数え上げるだろう。

    繰り返されるしかない物語に誰かは犬死にして、

     そしてあなたはあなたの求めるすべてから生き残るから。   
                       










あなたの求めるものへ、



あなたは求めたものに、



あなたの求めるものから、


あなたを求めたものが。




















22:27 | poetry | comments(5) | trackbacks(140)


映画評 『太陽を盗んだ男』 − 黙示録の時代に表象される人々の孤独




太陽を盗んだ男

1979年 日本映画
監督:長谷川和彦
脚本:レナード・シュレイダー
出演:沢田研二 菅原文太 池上季美子



もはや20年以上前の映画であり、監督作品がわずか2本にもかかわらず現在でも根強いカルト的支持者を擁する引退同然の映画監督長谷川和彦の貴重な2作目。


いたって平凡な東京在住の中学理科教師が交番を襲って拳銃を奪い、東海村の原発からプルトニウムを強奪する。アパートの自室で苦労の末、一個の原子爆弾を完成させる。理科教師の男は原爆の保有を密かに政府に知らせ、国家を相手に脅迫を開始する。といっても野球のナイター中継を延長させたり、ローリング・ストーンズの来日を要求したり、脅迫内容に困って仕方なく現金を要求したりと、バイタリティに欠け、なんともショボいのだが。やがて男は自分の体が原爆製造の際に浴びた放射能障害に蝕まれていることに気づく。


かなりB級だが戦慄に満ちた映画ではある。なにせ核兵器が絶対禁忌の唯一の被爆国にして原爆がたった一人の男に製造されるのである。今でこそ米国TVドラマでテロリストの核攻撃が題材になる時代だが、核拡散の問題を劇場型犯罪に結びつけた発想自体がすでにメガトン級である。

平凡な市民生活を送る愉快犯というアイデアも製作当時の発想にしては冴えている。ディティールの恐ろしいまでの粗さを抜きにすれば水爆ぐらいの迫力のある作品だろう。なんせドラマ前半、中学教師と生徒が乗ったバスを完全武装した老人にバスジャックされたとき、皇居に強行侵入して手榴弾を投げ込んだりするんだから。


ストーリーの展開は細かいミスに目をつぶればかなり見ごたえがある。原爆が完成したときに沢田研二がボブ・マーリーを聞きながら踊るシーンなんかのユーモラスさもある。主人公が結構いい人(?)だったりするので感情移入もしやすい。

ただ全編を覆うのは無機質というか殺伐を通り越した虚無的な孤独感である。もう死んでしまっているかのような孤独感である。

映画冒頭は核実験のキノコ雲とその轟音とともに始まるが、その死のイメージに相応しい透徹された冷ややかな孤独感だ。

可愛がっていた野良猫がうっかりプルトニウムの破片を食べて即死するシーンなどむちゃむちゃ痛い。警官に包囲されたデパートのトイレで抜けていく自分の髪の毛を見て錯乱するシーンも哀しい。

なんかだ男が一人、自分の部屋でこの世の最終兵器を作っていくという設定自体が寒々とした侘しい孤独としか言いようが無い。


なにかあまりに原爆というヨハネ黙示録的ハルマゲドンの絶対性に対して、それと向き合う一個の人間の物理的・存在論的規模があまりにも過小で貧弱で儚すぎるのである。

冒頭の核爆発の映像がこの映画が核時代を生きる人間の砂塵のような存在感を表出し、個人の観念の中で核と相対することがいかに不可能で圧倒し尽くされるかを象徴している気がする。


菅原文太演じる刑事と死闘を繰り広げた後、男は投げやりに生気を喪失した顔で、時限装置がオンになった原爆の入ったバッグを抱えて力なくガムを噛み、街の中へとぼんやり歩いていく。時限装置の秒針の音が次第に高まっていき、ふっと音が止まった瞬間、画面は脱力気味の男の顔のストップモーションとともに核爆発の轟音が流れて映画は終わる。

このラストの戦慄は凄まじいが、エンドロールが流れる頃になんとも言えないやりきれなさを感じるのは、わたしがシリアスに考えすぎなのかねえ。


わたしは長谷川和彦氏と握手をして言葉を交わしたことがある。「孤独を感じました」と映画の感想を述べると、長谷川氏は「そうか?」と不可解そうな表情をしていた。頼むから、寄り道道草を食わず、早く連合赤軍映画を作って、カムバックしてくださいよ、長谷川監督。







Kazuhiko Hasegawa





17:45 | cinema | comments(5) | trackbacks(2)


真夜中のヴィジョン











告げられたとおりの5つの言葉を囁いて







目隠しを解いて  外気に触れると















なけなしの思いは 







地下鉄に飛び乗って男とともに7個目の駅の街の夜で階段を駆け上がって行方をくらますから   









もう探しようがない

























名前のないカップルが 名づけあってから  屋上で名前のないシュレッダーで裁断される











暗がりの中だと  通りすがるみんなの顔が綺麗だね  だなんて、







そんなあなたも  キャラメル か 誰かのハードディスク で 見えなくなったよ。

























子供達を地下鉄の通路の闇にシェルターを作って一人ずつ守りながら、































あたしは 際限もなく沸き起こる哀しい衝動に    告げられた5つの言葉  すりきらして、



























考えてる・・・・・・・・































真夜中のヴィジョン・・・・・・・・・・・・・・・。






























09:43 | poetry | comments(1) | trackbacks(1)


書評 『最後の物たちの国で」−喪失していく未来から届いた20世紀の追憶



最後の物たちの国で

ポール・オースター 著 / 柴田元幸 訳
白水社 所収 / 1994年



「人々が住む場所を失い、食物を求めて街をさまよう国、盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国、死以外にそこから逃れるすべのない国。アンナが行方不明の兄を捜して乗りこんだのは、そんな悪夢のような国だった。極限状況における愛と死を描く二十世紀の寓話」。

以上はアマゾン・ドットコムのブックレビューより引用。


ポール・オースターは現代アメリカ文学の異色作家。不条理な物語性でよくカフカなどの一連の作家と同列に論じられることが多い。


しかしオースターの描く不条理はカフカのような不気味なモノトーンの感触やバタイユの伝承文学のような重厚感はない。

どこか不条理でありながら人間が人間であるところの避けがたい必然を説得力をもって呼び起こし、その必然に翻弄される人間へのオースター的とでもいうような独特の距離間を維持した共感でもって描かれているような気がする。


本書はそのオースター的な距離間が極限まで縮まった非常にパッションの強い作風である。


タイトルの示すとおり、この作品の世界では全てがもはや崩壊のベクトルにのみ向かってゆっくりと沈みゆく。一日一日ごとに物たちが失われ、食料や秩序はおろか、言語や知性全般が目に見えて喪失してゆく極限のアノミーが支配している。


それ自体はまさに「20世紀の寓話」の表現であり、前世紀の現実の世界がもたらしたアウシュビッツやシベリアのラーゲリ、第二次大戦などの悲劇の挿話的なエピソードがいろんな部分に挟まれている。

不条理の表現というよりも、実在の世界がパラドックス中たちでその軌跡を織り込まれている。

わたしたちが20世紀を経てリアルタイムに刻み付けられていく絶望そのものが、物たちが最後に向かってゆく負のエネルギーに加速をつけてこの寓話の進行を形作っているような深刻な状況である。


だからこそこの物語は計らずも主人公アンナのヒロイズムによって骨太く支えられて進まざるをえない。

このアンナの告白体で綴られる物語のクライマックスは、やはりラストにおけるアンナが別世界の友人に宛てた力強い約束の言葉の吐露に尽きるだろう。


崩壊する世界と自身の運命を半ば受容しながらも、最後まで肯定感を失うことがない。もはや何に対する肯定感なのかも分からない。どこにも向かわない希望の示すところも何一つない。


しかしこのような無意味に対する意味性を携えた姿勢こそがこれまでの不条理文学では描かれなかったスタンスである。

そしてもっとも困難でありながら安易に稚拙なニヒリズムと取引をしない、言葉のない世界で唯一外側に向かえる信頼に根ざした言葉を帯びた精神なのである。オースターのこの作品での最大の功績はここにある。







Paul Auster





01:05 | book | comments(1) | trackbacks(1)